それだけの言葉の中にも、にじみ出た文雅(ぶんが)への素養というものが感じとられる。
司馬遼太郎『国盗り物語』
長州征伐に臨んでいた幕府軍が総崩れになった。薩摩が出兵しなかったとはいえ、幕府軍の優勢が伝えられていたのだ。友助がジョンに確かめたところ、流言飛語(りゅうげんひご)ではないらしいい。
朝井まかて『グッドバイ』
竹谷家は「河仁」の屋号で通る老舗で大浦屋と同じ油商であったが、財の充実した先代が暖簾を仕舞い、市中の方々に持つ土地や長屋を貸して悠々緩々(ゆうゆうかんかん)の暮らしを続けている。
朝井まかて『グッドバイ』
お希以は己で何とかしよる、この家も位牌も何とかしてくれる。そんな料簡(りょうけん)だったとしか思えないのだ。でなければ、あんなふうに鼠のごとく去れるわけがない。お希以も我が娘であるのに一顧だにせず、脇目も振らず。
朝井まかて『グッドバイ』
よく、外国から帰ってきた人たちは、外国じこみのスマートな身なり、身のこなしを身につけていたのに、TN君には、そうしたところがない。彼は、そうしたこととは無縁で、知っている人たちから自然児とあだなされたほど天衣無縫(てんいむほう)だった。
なだいなだ『TN君の伝記』
TN君は、板垣に、そう答えて笑い、いまのところ出版するつもりがないといった。そのかわり、学生のノートが、つぎつぎと書き写され、日本中にひろまっていくのを、じっと見つめていた。それは、まったく燎原の火(りょうげんのひ)という表現にふさわしい、いきおいだった。
なだいなだ『TN君の伝記』
その日の夕方、羽田のオペレーションセンターの講堂は、制服姿の機長をはじめとする乗員、スチュワーデス、作業衣の整備士やスーツ姿の一般地上職が集まって、立錐の余地もない(りっすいのよちもない)ほどであった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
そもそも国見会長には、国民航空の宿痾(しゅくあ)である労務問題を打開して貰うため出馬願ったのに、社内最大の組合と真っ向から対立し、批判の声明を出されて以来、ごたごた続きで、以前より組合間の対立が深刻化したと評する向きもある。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「副総理の益々のご健康を念じて、北京から自社便で取り寄せたものでございます」と云い、麗々しい(れいれいしい)包装の箱を差し出したが、その中には竹丸が取りまとめる閣僚の謝礼分と共に、野党対策費も入っていたのだった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
国民航空はもはやどうしようもない、手術のために手術室へ入ったら、医者は自分一人で誰もいなかったというのが偽りのない心境です、かくなる上は、司直(しちょく)の手に委ねるより他に——。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
私が頭取時代から展開してきた東南アジア、中近東、中南米のプロジェクトには、いつもあれを私の懐刀(ふところがたな)として使い、百戦錬磨の働きで応えてくれています、産銀ファイナンスの社長に就任させたのも、より一層、動きやすくさせるためなのです。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
もちろん決める前には、古巣の後輩に見通しを聞きましたよ、またわが社の幹事銀行である日本産業銀行にも、腹を割って話し合える知己(ちき)がおり、意見を求めました、しかし大蔵省、産銀とも、円高に振れる懸念はないと云い切りましたので、十年物で行く方針稟議を決定したのです。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
国際金融局次長にまでなりながら、僅か一年で印刷局長に転出させられ、ややランク落ちの感が否めない国民航空へ天下ったのは、剃刀のような局長と、きら星の如く居並ぶ課長たちに挟まれて、かすんだ存在であったためと、国見は聞いていた。だが、"元大蔵官僚"は腐っても鯛(くさってもたい)であった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
昭和五十二年、オイルショック後の繊維業界大不況の中で、関西紡績はアクリル繊維部門で何十億もの損失を出しながら、全体で三百四十億もの黒字決算を行った。主な粉飾(ふんしょく)は工場跡地の売却、在庫品の水増しなどである。このような粉飾に慣れた手腕で、国民航空の業績も操作されるのではないか。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
あれだけの惨事を起こしながら、今なお反省もなく、一部の者が社内利権を貪っているのは、企業倫理が欠如しているからだ、ここで私の腰が退けては、今日まで努力して来たことが灰燼(かいじん)に帰してしまう、おそらく今後も、旧体制の特定派閥と馴れ合ったマスコミが、さらに中傷、誹謗の記事を書きたてるだろうが、いちいち抗議したりする時間は、今の私にはない。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
この額に関し、会長室の恩地部長は、「思いもよらぬ大きな書を表装すると、一畳にもなり、掛けるところはここしかないのです」と説明するが、かくいう氏こそ国見人事の嚆矢(こうし)ともいうべき人物である。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
ところが発令された会長室メンバーの多くは、これまで経営の中枢から遠ざけられていた"冷飯喰い(ひやめしぐい)"が大半で、何を基準にしてこんなメンバーが選ばれたのかと、社内はすっかりシラけましたよ。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「昨日、お電話したように、会長室の取材に是非、協力して下さい、御巣鷹山事故の大惨事から一年以上、経過しているのに、国民航空は安全運行にどう取り組んでいるのか、遺族はおろか、一般国民にも見えてきません、それどころか、再建に取り組んでいる国見会長への非難ばかりが、一部マスコミから執拗に流されています」と、悲憤慷慨(ひふんこうがい)するように云った。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
四月というからには、会社の他の人事に絡ませ、巧く組合を説得するつもりなのだろう。官僚出身者らしい狡猾(こうかつ)なやり方であったが、海野がそこまで云うなら、やらせることだと考えた。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「海野さん、あの声明文は、われわれ新経営陣を批判し、極言すれば挑戦して来たものですよ、それを是認するような言い方はおかしいじゃありませんか、それでは真剣な交渉などできるはずがない」厳しく詰る(なじる)と、三成は、「会長のお腹だちのほどは重々、承知しておりますが、今の新生労組と傘下の客乗支部は、一発触発の状態です。」
山崎豊子『沈まぬ太陽』
今日、はじめて顔を合わせた行天常務も、いけすかな(いけすな)かった。ばりっとした身形で、評判通りの切れ者という印象だったが、身元を隠すように、自身のことを否定しかけるあたり、腹がない男だった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「あら、秘書課長の川野さんも、私が社長では若過ぎると云われましたけど、お店へ飲みに来る会計士の方に聞いたら、年齢なんか関係ないと云ってらしたわ、二十歳でもスナックを法人にして、社長になっている人もいるんですってよ」柳眉(りゅうび)をさかだてて、迫った。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
組合OBが、会社を喰いものにし、声明文にまで口を出すなどひど過ぎる、曾て組合分裂の時、陰で動いていた人物が、今は黒幕の大物として跳梁(ちょうりょう)しているようでは、国民航空は救いようがない、富士君の年代では知らないだろうが、会社は組合分断にあらゆる術を使い、弱小組合になった国航労組に対し、常識では考えられぬ酷い仕打ちをしたのだ、そのことが大きな亀裂になって、今なお長く尾を曳いているんです。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
生協は執行部とOBの利権の巣窟(そうくつ)であり、その利権を使って、新生労組の役員たちは、本社の管理職になり、エリートコースに乗る、ですから、恩地さんのされたことは、その既得権を取り上げるに等しかったわけです。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
額は下ろされた方がよろしいですよ、口さがない(くちさがない)連中によれば、国見会長は、総理の揮毫された『王道』の額を背負って、自分の為すことすべて総理のお墨付きとばかりに、威光を笠にきている、ということじゃないですか。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「ご苦労さま——、会長特命の調査とかで、私に直接、話って何だね、私は何事につけ方針だけ決め、あとのことはすべて財務部長任せにしているのだがね」早々に煙幕(えんまく)を張った。和光は、机を挟んで冷静に切り出した。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
"肥後もっこす"の豪放な面はあるが、官僚らしい用心深さにおいては人後におちない(じんごにおちない)石黒が、そこまであの女に入れ込んでいるとは、いよいよ意外であった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
後発の新日本空輸にとって、国際線進出は三十年来の悲願ですから、必死になるのは当然ですが、国民航空は既に、世界各国へ路線を持っているのだから、そんなに色めきたつ(いろめきたつ)ことはないじゃありませんか。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
何しろ、新日本空輸は国民航空に追いつき、追い越せが露骨で、来期は、ヨーロッパ進出に執念を燃やし、夜討ち朝がけ(ようちあさがけ)の攻勢をかけていると聞いております、それだけに当社としては、何としても石黒課長のお力にお縋りしたいのでございます。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
いつも云っているように、航空会社で最も大切なものは飛行機です、この実に単純明快なことが、国民航空では理解されていない、特に整備士に至っては、二十四時間三交替制で油にまみれながら働いているにもかかわらず、軽んじられる風潮があるのは、由々しき(ゆゆしき)ことです、これからの国民航空は整備が中心となり、パイロットやスチュワーデスがいて、彼らを囲むように営業や管理部門があるべきです、その意味で、『機付き整備士制度』の導入は早期に実現させねばならないと考えます。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
私は古いしきたりで育った男ですから、世間の価値観が物差しになってます、そやから国民航空が五百二十名もの犠牲者を出して以来、金輪際(こんりんざい)、あの会社の飛行機には乗らんと、通してきましたけど、恩地さんが再建に参画されると聞いて、今日は国民航空で羽田までちゃんと、飛んできましたのや。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
そら、恩地さんは東都大学法学部出ですよって、それを当然と思うてはるでしょうが、総理は別にして、関西紡績の国見会長云うたら、財界のおしもおされぬ(押しも押されぬ)大御所です、そのお方のいわば補佐官ちゅうのは、私らにとったら、えらいことです。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「もうご一緒出来ないかと思うと、残念です、二十一年にわたって貫かれた藤井さんの不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を、私たちも受け継いで参ります。」女性パーサーが、かすかに眼を潤ませながらも、しっかりした口調で云った。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
三成は、自由党の航空対策特別委員会の青山代議士のもとへ裏献金を届け、権謀術数を弄し(ろうし)て帰って来たばかりであったから、ぎくりとしながらも営業畑で鍛え上げたしたたかさで...
山崎豊子『沈まぬ太陽』
王道とは、中国の夏、殷、周三代の賢王が行った公明正大、無私無偏の道を云い、国を治めるのに権力、陰謀などの覇道によらず、徳を以てせよということです、出典は中国最古の文献『書経』といわれています、総理は、会社の経営、つまり、国民航空の再建も、権謀術数(けんぼうじゅっすう)に依らず、公明正大に王道を以て成し遂げられたしという意を籠めておられるのでしょう。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
三成の部屋には、本といえば、各企業の分厚い社史、絵画といえば、額の方が高価そうなありきたりの富士山の絵しかなく、目を惹くのは、サイドボードにずらりと並んだゴルフコンペの優勝カップであった。毎日、女性秘書に磨かせているという噂通り、燦然(さんぜん)と輝いている。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
辣腕記者であったから、当初は東京近郊でのゴルフコンペや、新橋の料亭『千姫』での飲食接待だったが、次第にエスカレートし、札幌でのゴルフに招待した時は、顎足付き(あごあしつき)だったのに、ゴルフ道具さえ持って来なかった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
調査すれば解ることですが、国民航空の社員食堂が、他社と比べて高く、まずいこと、催物、通信販売には、生協幹部への上納金なくしては参加させて貰えないこと、また、その多寡によって、売場の配置やカタログでの扱いが違って来ることなど、目に余る(めにあまる)ものがあります。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
衆参同時選挙がこの夏に行われそうなこと、株価がこの三日間でかなり上昇していることなどを読んでから、社会面、特に死亡欄には仔細に目を通した。恩顧を蒙っ(おんこをこうむっ)た人への弔意を、国見は重んじる性格だった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
爪に火を点す(つめにひをともす)ように苦労して新しい機械を入れ、アメリカより後発だった合繊は特に、よりよい設備投資と絶えざる技術革新という、血と汗の結晶だったのである。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
そこで率直にお聞きしますが、『会長室』について、揣摩臆測(しまおくそく)がとび、国民航空のシャドウ・キャビネットなどという声も耳に入って参りますが、会長室とはどのような部署なのですか、お伺いします。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
皆さんの中には、これまでの経緯で、相容れぬ相手もあるでしょうが、航空史上最大の惨事を引き起こしたことを肝に銘じ、過去にこだわらず、云うならば私怨(しえん)を超え、心を一にして、絶対安全という共通の目標を持って、現在の難局を乗り切って貰いたい、何か問題があれば直接、私にぶつけて、一緒に問題を解決して行きたい。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
岩合は、八の字眉の下の三白眼(さんぱくがん)を、轟にちらっと向け、「確かに国見は手がやけそうな人物だ、だが、もし、われわれに一言の挨拶もなく、新生労組に手を出せばどうなるか、早目に知らしめておくべきだ」と云い、「どうだ、秋月、酔いざましにちょっと、甲板へ出るか」秋月に、目配せした。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
一方、権田の方も、国見会長と何度か話し合い、その内容は逐一、報告させていますが、えらい惚れ込みようで、組合統合以外、道はありませんと、ミイラ取りがミイラになっ(みいらとりがみいらにな)たようなことを云いはじめる始末です、頭を冷せと怒鳴りつけてやったところですよ。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「厄介な奴が、国民航空へ乗り込んで来たものですね、恐いもの知らずほど、手がやけるものはない」だらしのない巨体とその風貌に似合わず、ピンクのシャンパンが大好物の轟が、冷えたシャンパンを飲みながら、嘯い(うそぶい)た。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「先生、いろいろとご高見(こうけん)を伺わせて戴き恐縮でございました」と云い、海野社長も、いつもの頭の高さと打って変わって、「今後ともよろしくご指導のほどを——」鄭重に頭を下げ、座敷の敷居際まで見送った。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
もとより、再建の道は多岐多難でありますが、御巣鷹山で亡くなられた犠牲者の方々の御霊を心からお弔いし、ご遺族の方々にお詫びするために、身命を賭し(しんめいをとし)て、安全運航を成し遂げねばなりません。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
戦時中の社長であった方も『軍民殉国』のスローガンを掲げ、戦局が厳しくなると、他社に先んじて、軍需工場への転用に応じられましたね、国見さん、その伝統を継ぎ、あなたもまことにご苦労ではありますが、ここは一つ、お国のために、重責を引き受けて戴きたい、総理は、三顧の礼(さんこのれい)を以て迎えると、申しておられます。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「私がとやかく申すことではありませんが、権威であられる先生方に混って、各航空会社の乗員、客乗の諸組合、その上部団体の幹部など、やけに組合関係者の応募が目だちますね、こういう連中は、どんな事故の場合でも、事故調に偏見を持って、異論を唱えて来ますから、除外ということにしないと、矢武先生、大へんですよ」お為ごかし(おためごかし)に云った。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
裁判沙汰になれば、国民航空には腕利きの高名な顧問弁護士がずらりと控えているから、特に痛痒は感じない(つうようはかんじない)が、訴えられては、"補償交渉のプロ"と評価されている自分の名前に傷がつく。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
それにしても、まだ話合いも進めていない夫の補償金に、親弟妹が、鵜の目鷹の目(うのめたかのめ)なのを知るにつけ、お金が人の心をこれほど変えるものなのかと思い知らされた。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
国民航空が、真剣に遺族との補償交渉に取り組もうとするなら、定年前や窓際族の社員より、会社の将来を担うエリートが、事故の凄惨さと遺族の塗炭の苦しみ(とたんのくるしみ)、そして遺族と会社との板挟みになっている補償係の立場を理解してこそ、誠意ある補償と安全に対する心構えができる——、それが恩地の補償に対する考えであった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
だが事故調が独立機関とはいえ、存立の基礎が運輸省にある日本の実情では、委員長が、運輸大臣に建議を行うことは行政絡みから微妙であり、一つ間違えば日米間の大きな問題にも発展しかねないだけに、米国側と良好な関係を保ちたい運輸省としては、頰かむり(ほおかむり)しておきたい心中がみえみえであった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
部長の行天以下、通常の二倍の数で対応していた部員たちはコーヒーや、ビールのおつまみ、サンドイッチなどで虫養い(むしやしない)しながら、事故を取り上げるテレビのニュース番組や報道特集を見、ビデオに録画して、明日のコメントに備える体制を取っていた。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
背の低さを隠すために、いつもヒールの高い靴を履いて、国会内を走り廻るいやな相手であったが、運輸委員会で、些細なことを大袈裟な問題にして、小賢しい(こざかしい)質問をされることを思えば、ご機嫌を取るくらい、わけはない。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
南専務は、命令が出た限りは、従うより他ないという意見です、もともと、心情的に恩地シンパ(しんぱ)なのです、せっかく、アカの親玉黴菌の恩地を、今日まで島流しにしてきたというのに、沢泉という子黴菌が育って、一人前のことをはじめたかと思うと、腸(はらわた)が煮えくり返ります。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
これも、証人尋問のしんがりを務めた恩地さんの声涙ともにくだる(せいるいともにくだる)証言と、その後、沢泉君が中央執行委員長として、会社の差別政策を止めさせるよう、早期に命令を出してほしいと訴えた結果だよ、よくやった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
全面的に協力するからと、私を委員長に口説き落とした八馬さんがその舌の根も乾かぬうちに(したのねもかわかぬうちに)、団交の席でテーブルを挟み、労務課長としてわれわれと対峙したからです。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「はじめまして、私は国民航空のナイロビ営業所に赴任しました恩地元です」と挨拶すると、二メートル近い大柄な社長は、鷹揚(おうよう)に革張りの椅子から立ち上がり、手をさしのべた。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「前にも話したように、君の人事は私の権限外のことだから、理屈を並べても時間の無駄だ、間違っていようが、いまいが、辞令が出てしまえば、従うより他ないね」引導を渡す(いんどうをわたす)ように、云った。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
日本では、ロイヤル・ファミリーに対して幻想を持ち過ぎだ、ロイヤル・ファミリーの名のもとに、利権を貪る魑魅魍魎(ちみもうりょう)の集団に過ぎない、そんな実態を知らず、妙な政治判断を下す前に、なぜ、現地支店長たる私に知らせなかったんだ、ここから先は、現地で一切取り仕切るから、本社で勝手な決定をしないで貰いたい。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
委員長はお祭り男で有名な畑辰造、副委員長は策士の甘粕一夫、書記長に至っては、口八丁手八丁(くちはっちょうてはっちょう)で、黒を白と云いくるめるペテン師の美原譲治、この三人を見れば、会社に舁がれた臆面もない御用組合であることは明らかだ。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「それがペルシア商法というのなら、汚すぎる、これが普通なら、以後、あんたとのつき合いは不快だから止める!」と面罵(めんば)し、フラットを出て、車に戻ったが、なかなか、エンジンは、かからない。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
私たちの今の要求は、これまでが低賃金であったため、正当なものであるが、一気に、一律定額四千円プラス、基本給二〇パーセントのアップ、諸手当の最大割増率二〇パーセントの要求は、世間から見れば非常識の誹りを免れない(そしりをまぬがれない)と思う。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
云われるまでもなく、昨年の十二月、日経連専務理事から、労務対策の手ぬるさを指摘され、組合執行部を制するには、毒を以って毒を制す(どくをもってどくをせいす)の術で、転向者の堂本信介の登用を示唆されたのだった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「労務担当として申し上げたいのは、あくまで現実に即した要求を出し直して戴きたいということです」 「それでは、われわれの要求が非常識だと云われるのですか」 「——言葉通りです」 木で鼻を括る(きではなをくくる)ように、答えた。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
いよいよ、海外渡航の自由化と、東京オリンピックを控え、今年あたりから、航空業界の本格的な需要が予想される、こういう時こそ会社と組合は強調し、労使一丸となって、世界各国の航空会社に伍して(ごして)行ける体力作りを、大きな目標にしたいと思っています。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
半ば、侮るように云ったが、恩地は、その転向組ならばこそ、手強い——、転向者なるが故に、労使対決の"踏み絵"を踏み、会社への忠誠心を披瀝(ひれき)しなければならぬ立場におかれるからだった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
アフリカの地の果てとも云われているラゴスの市場調査は、国民航空にとって何ら必要のないことであるにもかかわらず、ものものしく、出張期間を指定してまで、自分を行かせようとする真意は、奈辺(なへん)にあるのだろうか。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
京都では新選組や見廻組の猛者達に恐れられるほどの凄まじい剣の冴えを見せたのだし、薩摩藩や官軍が行った戦争のたびに、利秋は「あやつは、よろずにつけ物を怖がることを知らん奴じゃ。胆の太かこと無類じゃ」と外祖父の別府九郎兵衛が口癖のように言っていた言葉の通り、獅子奮迅(ししふんじん)の働きをしてきている。
池波正太郎『賊将』
勿論、いくら弱腰の幕府当局でも飲める要求ではなかったし、またロシアの海軍士官モフェト他二名が横浜で攘夷派浪人に暗殺されるという事件も起きたりして、ムラヴィヨフは不得要領(ふとくようりょう)のまま品川湾を抜錨した。
綱淵謙錠『朔』
以上のような早川弥五左衛門の前半生を顧みて思うことは、もしわが国の歴史にまだ泰平の眠りをむさぼっておれる余裕があったならば、彼の一生はあるいは名牧民官として平穏裡(へいおんり)に幕を閉じたかもしれないし、あるいはさらに大野藩の政治の中枢にあって名宰相の名をほしいままにしていたかもしれない、ということである。
綱淵謙錠『朔』
国で主君(土井利忠)が一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで大野丸の到着を待っておられるというのに、自分の不注意からつまらぬ病気にかかったばかりにこんな遅滞を招いてしまった、もう病気も癒ったのであるから、こんなところにぐずぐずしていないで、一日も早く敦賀に行かねば申し訳が立たない、というのであった。
綱淵謙錠『朔』
戦争の実相に慄然とした船岡勢も、はじめのうちこそかような行為をする敵兵を憎んだが、そのうちにはなんとも思わなくなり、自分達もまた進んで掠奪(りゃくだつ)をし、放火をし、次第に相貌まで変えて荒ませていった。
大池唯雄『秋田口の兄弟』
仙台領柴田郡船岡村は伊達家御一家五千石柴田中務意広の知行所であったが、戦況は日に日に味方に不利で、官軍は日ならずして(ひならずして)国境に迫ろうとしているという風評がしきりであった。
大池唯雄『秋田口の兄弟』