政宗は、追い縋っ(おいすがっ)た。
大池唯雄『兜首』
京都では新選組や見廻組の猛者達に恐れられるほどの凄まじい剣の冴えを見せたのだし、薩摩藩や官軍が行った戦争のたびに、利秋は「あやつは、よろずにつけ物を怖がることを知らん奴じゃ。胆の太かこと無類じゃ」と外祖父の別府九郎兵衛が口癖のように言っていた言葉の通り、獅子奮迅(ししふんじん)の働きをしてきている。
池波正太郎『賊将』
勿論、いくら弱腰の幕府当局でも飲める要求ではなかったし、またロシアの海軍士官モフェト他二名が横浜で攘夷派浪人に暗殺されるという事件も起きたりして、ムラヴィヨフは不得要領(ふとくようりょう)のまま品川湾を抜錨した。
綱淵謙錠『朔』
以上のような早川弥五左衛門の前半生を顧みて思うことは、もしわが国の歴史にまだ泰平の眠りをむさぼっておれる余裕があったならば、彼の一生はあるいは名牧民官として平穏裡(へいおんり)に幕を閉じたかもしれないし、あるいはさらに大野藩の政治の中枢にあって名宰相の名をほしいままにしていたかもしれない、ということである。
綱淵謙錠『朔』