生馬の目を抜く(いきうまのめをぬく)アメリカのテレビ局で、まともな仕事を与えられるはずもなく、どうせ便利屋扱いされているだけに違いなかった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
"肥後もっこす"の豪放な面はあるが、官僚らしい用心深さにおいては人後におちない(じんごにおちない)石黒が、そこまであの女に入れ込んでいるとは、いよいよ意外であった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
後発の新日本空輸にとって、国際線進出は三十年来の悲願ですから、必死になるのは当然ですが、国民航空は既に、世界各国へ路線を持っているのだから、そんなに色めきたつ(いろめきたつ)ことはないじゃありませんか。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
何しろ、新日本空輸は国民航空に追いつき、追い越せが露骨で、来期は、ヨーロッパ進出に執念を燃やし、夜討ち朝がけ(ようちあさがけ)の攻勢をかけていると聞いております、それだけに当社としては、何としても石黒課長のお力にお縋りしたいのでございます。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
いつも云っているように、航空会社で最も大切なものは飛行機です、この実に単純明快なことが、国民航空では理解されていない、特に整備士に至っては、二十四時間三交替制で油にまみれながら働いているにもかかわらず、軽んじられる風潮があるのは、由々しき(ゆゆしき)ことです、これからの国民航空は整備が中心となり、パイロットやスチュワーデスがいて、彼らを囲むように営業や管理部門があるべきです、その意味で、『機付き整備士制度』の導入は早期に実現させねばならないと考えます。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
私は古いしきたりで育った男ですから、世間の価値観が物差しになってます、そやから国民航空が五百二十名もの犠牲者を出して以来、金輪際(こんりんざい)、あの会社の飛行機には乗らんと、通してきましたけど、恩地さんが再建に参画されると聞いて、今日は国民航空で羽田までちゃんと、飛んできましたのや。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
そら、恩地さんは東都大学法学部出ですよって、それを当然と思うてはるでしょうが、総理は別にして、関西紡績の国見会長云うたら、財界のおしもおされぬ(押しも押されぬ)大御所です、そのお方のいわば補佐官ちゅうのは、私らにとったら、えらいことです。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
「もうご一緒出来ないかと思うと、残念です、二十一年にわたって貫かれた藤井さんの不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を、私たちも受け継いで参ります。」女性パーサーが、かすかに眼を潤ませながらも、しっかりした口調で云った。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
三成は、自由党の航空対策特別委員会の青山代議士のもとへ裏献金を届け、権謀術数を弄し(ろうし)て帰って来たばかりであったから、ぎくりとしながらも営業畑で鍛え上げたしたたかさで...
山崎豊子『沈まぬ太陽』
王道とは、中国の夏、殷、周三代の賢王が行った公明正大、無私無偏の道を云い、国を治めるのに権力、陰謀などの覇道によらず、徳を以てせよということです、出典は中国最古の文献『書経』といわれています、総理は、会社の経営、つまり、国民航空の再建も、権謀術数(けんぼうじゅっすう)に依らず、公明正大に王道を以て成し遂げられたしという意を籠めておられるのでしょう。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
三成の部屋には、本といえば、各企業の分厚い社史、絵画といえば、額の方が高価そうなありきたりの富士山の絵しかなく、目を惹くのは、サイドボードにずらりと並んだゴルフコンペの優勝カップであった。毎日、女性秘書に磨かせているという噂通り、燦然(さんぜん)と輝いている。
山崎豊子『沈まぬ太陽』
辣腕記者であったから、当初は東京近郊でのゴルフコンペや、新橋の料亭『千姫』での飲食接待だったが、次第にエスカレートし、札幌でのゴルフに招待した時は、顎足付き(あごあしつき)だったのに、ゴルフ道具さえ持って来なかった。
山崎豊子『沈まぬ太陽』