順天堂医院は当時湯島にあり、千葉佐倉出身の外科医、佐藤尚中が創設しただけに、外科学の大家が轡を並べ(くつわをならべ)ていた。
渡辺淳一『遠き落日』
水呑百姓(みずのみひゃくしょう)の手ん棒であったころを知っている故郷の者達は、たとえ医師免許をえたからといって、すぐ集まってくるとは思えない。
ともかく、この夏の血脇守之助との邂逅(かいこう)が、小林栄、渡部鼎に次ぐ、第三の重要な人物を知る発端となった。
しかし勝気なことではシカも清作も人後におちない(じんごにおちない)。
病院に行くお金がなかったから片輪になった、というのはシカのくりごと(繰り言)で、病院に行ったとしても、結果はさして変わりはなかったかもしれない。
太陽が猖獗(しょうけつ)をきわめるいま、人々は家のなかか樹蔭で休み、白い街は息を潜めてひたすら陽が傾くのを待っていた。
そないまでして、借金の棒引き(ぼうびき)せんなりまへんか!
山崎豊子『花のれん』
ダッ、ダッ、ダッ、夜の坂道を降りていく久男の軍靴の足音と、赤く燃え上がっている大阪の空とが、多加の眼と耳の中で、激しく交錯(こうさく)した。
何かしんみり話し合いたいと思ったが、急に話の接穂(つぎほ)もなかった。
翌日から多加は、寄席がはねる(はねる)と、あとの始末をガマ口に任せて、紅梅亭から二丁ほどの戎橋筋へ出る四つ辻で、電信柱の陰に隠れて佇んでいた。
木戸銭(きどせん)も紅梅亭の二十銭に対して十銭にしたが、遊蕩客や通の多い法善寺界隈では、木戸銭の高い安いなど問題にしない。
紅白の幔幕や、四斗樽の軒積みに飾られた正月の賑わいの中を、黒いインバネスを纏った上背のある(うわぜいのある)体が、見え隠れしながら、ゆっくりたち去って行った。
冗談かと思っていると、孝平は翌日、朝起きて顔を洗うなり、東京店の方を向いて、皆に丁寧に遥拝(ようはい)させた。
山崎豊子『暖簾』
しかし、これが自分の実力で購い(あがない)得た最初の拠点だ、ここから働いて、徐々に巨大な拠点に広めて行くのだと、孝平は大きな眼を赤く充血させた。
長い間、雌伏(しふく)して商いを勉強していた孝平に、はじめて大きなチャンスが近付いて来た。