「わたしは反対よ」メリーは肩をそびやかす(聳やかす)ようにはっきりといった。
渡辺淳一『遠き落日』
実力がないのに、ただアグラモンテや一部の学者の尻馬にのっ(しりうまにのっ)て、「そうだそうだ」と騒ぎたてる。
英世は例によって不満のたけ(丈)をニューヨークのフレキスナーへ書き送る。
守之助の紹介で会った女性との婚約を破棄したのも、放埒(ほうらつ)さが原因とはいえ、その裏にはヨネ子の面影を追っているところがあった。
英世への毀誉褒貶(きよほうへん)は、この性格のいずれの面を見たか、そしてそれを許せるか否かによって、ずいぶん異なってくる。
大言壮語(たいげんそうご)するだけに英世はよく頑張った。相変わらず不眠不休の勉強が続く。
文化的にも経済的にも、はるかにすすんでいるアメリカにきて、この国に負けないものとして国体の無比(むひ)をあげるところなど、良きにつけ悪きにつけ、英世は明治の日本人であった。
野口英世の一部の伝記には、「これで佐藤某の性病や、山崎某の心臓病など長年の難病が一度に治り、いずれも長生きした」と書かれているが、これは眉唾(まゆつば)である。
石黒忠悳は越後の出で、長州・土佐といった明治政府閥とは無縁ながら、華族になっただけあって、ものにこだわらない炯眼(けいがん)の主であった。
このあたりは鉄面皮(てつめんぴ)に金を無心して歩いた男とは思えぬ殊勝さである。
野に遺賢(いけん)ありとはいえ、一応、優秀なのは帝大に入っているのだから、そこからくる人材で間に合うという考えでもあった。
清作を知っている者は、すなわち被害者、いいかえると清作はいつも債鬼(さいき)のなかで暮らしていたともいえる。