司令部へ救護を求めに来る満洲国政府関係者、避難民はひきもきらなかっ(引きも切らなかっ)たが、軟禁されている壹岐たちは手のかしようもなく、ソ軍当局にソ連兵の取締りと邦人の早期帰還を要請するのみであった。
山崎豊子『不毛地帯』
司令部へ救護を求めに来る満洲国政府関係者、避難民はひきもきらなかっ(引きも切らなかっ)たが、軟禁されている壹岐たちは手のかしようもなく、ソ軍当局にソ連兵の取締りと邦人の早期帰還を要請するのみであった。
山崎豊子『不毛地帯』
平伏している用人は、これはいぶかしきこと、と少し頭を下げて、
「は、将軍家にいらせられます」
と答えるとただちにたたみかけられ、
「ならば、城明け渡しはその将軍家よりご命令が下されしものか。主なき空城を、むざむざと敵の手に渡せよというご命令がもはや下されたのか」
と詰め寄られ、用人は冷汗三斗(れいかんさんと)の思いで、
「上さまはただいまご謹慎中にて、直接の命令にてはございませぬが」
と口ごもると、はげしい叱責が降ってきて、
宮尾登美子『天璋院篤姫』
篤姫は二人が琴瑟相和す(きんしつあいわす)ことをひたすら願う心の隅に、黒い羨望と嫉妬が蹲っているのを深く自らの恥としているが、ときどきそれに負けて、夜半、ふと考え込んでいることがある。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
もし篤姫の冷静な助言がなかったら、婚儀続行中の最中、花園がまなじりを決して(まなじりをけっして)乗り込んでゆき、庭田典侍が例によって冷やかに、かつ誇り高く、こちらを見下したような対応をしたら、ますます険悪となるところだった、と思うのであった。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
各部屋とも障子、畳をすっかり新しくし、古い諸道具は大納戸へ片づけて見ちがえるように整然とした座敷には、各匠畢生(ひっせい)の力作の手道具類を飾り、これでもういつこの部屋の主が来てもよいよう、準備万端ととのっているのを見て篤姫はすっかり安心した。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
唐橋や幾島の手前、案ずるな、となだめているものの、正弘の死を聞いて以来、男が腎虚(じんきょ)になって死ぬほど愛されることが、実は女にとっていちばんしあわせなのではあるまいか、という疑いにとき折取りつかれることがある。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
何しろおびたたしい行列なので、途中は助郷人足を使わねばならず、各藩とも庄屋、郷士の息子など呼び出してその役を課したが、日頃馴れぬ力仕事でその任に耐えぬ者もあり、日当八百文で雲助(くもすけ)を雇って割当てを果たす者が多かったという。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
いま、その詩を読むと、頼山陽が十三、四で雄図(ゆうと)を抱き、やっと十八のときその願いが実現して江戸遊学したことがよみがえって来、十八歳といえばいまの自分と同い年だと篤姫は思った。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
当主が心身ともに脆弱のふうで、懸命に勤めを果たしている今和泉家にとって、これは一陽来復(いちようらいふく)にも等しい慶事であり、さっそく内輪の酒宴を、という段取りとなる。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
斉彬は、いま在国のあいだに信念とする和魂洋才(わこんようさい)の具現に努力し、万金をいとわず長崎から洋書を取寄せて翻訳させ、のちの集成館事業、つまり鉄鋼鋳造、火薬、大小銃砲鋳造、また陶磁器、製紙、搾油、農具、メッキ、硫塩酸の製造など多岐にわたって振興させ、時代の先駆者たる面目を見せるのであった。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
シリンダに圧力計をつけ、ピストンの動きと圧力との関係を自動的にグラフに表わす、いわゆるインディケータを考案して機関の効率をしらべるなど、そこで行なわれた作業の中には科学者はだし(跣)のことも少なくありません。
朝永振一郎『物理学とは何だろうか』
そこでは多くの先覚者たちが自然学のなかから呪術的あるいはその他の神秘的要素を洗いおとし、同時に、人の心を束縛していた古い固定観念と狭量(きょうりょう)な教会の教義とからそれを解放し、科学と宗教の守備範囲を確立していった、歴史のあとをたどってみました。
朝永振一郎『物理学とは何だろうか』
これを読んでわかることは、ニュートンにおいて、宇宙には天球もなく中心もなく、そこはもろもろの恒星がばらまかれた無限の空間であり、天動、地動の争いのごときものは、もはや蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)の争いに見えるほどそれは壮大なものなのです。
朝永振一郎『物理学とは何だろうか』
天体の運動を論ずるとき、それを質量だけを持つ点と考え、それがどんな物質でできているか、どんな形や大きさのものであるか、などということを捨象(しゃしょう)してよいのは、この第三法則のおかげです。
朝永振一郎『物理学とは何だろうか』
お前、せっかくしたけどこれ逆結びや、こんな結び方やったら運送屋も受け取ってくれへん、旦那の兵児帯みたいにすぐ解けてしまうわと、いきなり尻からげ(しりからげ)して、荒縄をとってぐっとしごき、片足を荷物にかけてくっくっと結び目を固めて行った——。
山崎豊子『暖簾』
本家の旦那はんが死に際に、吾平、浪花屋の暖簾大事にしてやといいはった、百貨店まで進出できたのも老舗の暖簾あってこそや、船場に奉公して、船場商人のしきたりの中で一かど(ひとかど)の商人になったわいや、店先の暖簾ははずされへん。
山崎豊子『暖簾』
昭和7年、すなわち一九三二年は、物理学界にとって、——私自身がそうだったより以上に、多事多端(たじたたん)な一年であった。一つだけでも画期的な発見といってよいような事件が、三つも続けざまに起った。
湯川秀樹『旅人』
しばらくは比較的、平穏な時期が続いていた。ところが突如として、再び狂瀾怒濤(きょうらんどとう)が起こった。そして、いよいよ私自身も、その中に巻きこまれることになったのである。
湯川秀樹『旅人』
その日から私は子供らしい夢の世界をすてて、むずかしい漢字のならんだ古色蒼然(こしょくそうぜん)たる書物の中に残っている、二千数百年前の古典の世界へ、突然入ってゆくことになった。
湯川秀樹『旅人』
なぜならば、光秀と肝胆相照らし(かんたんあいてらし)た藤孝でさえ信長の追善供養のために髪を切ったとなれば、世間は、——藤孝どのまでが。 とあって、光秀への批判、不人気、悪感情はいよいよ増すに違いない。
司馬遼太郎『国盗り物語』
道三は自分と信長を愛し、その衣鉢を継が(いはつをつが)せようとし、すくなくとも芸の師匠のごとき気持をもってくれていた。その山城入道の相弟子同士が、やがて本能寺で見えることになる。
司馬遼太郎『国盗り物語』
明智一族が鷺山の土岐頼芸に味方する以上、明智側から人質をさしだすのが、この時代の当然の礼儀であり、政治的表明であり、誠意の披瀝(ひれき)であり、ごく常識的なルールである。
司馬遼太郎『国盗り物語』