唐橋や幾島の手前、案ずるな、となだめているものの、正弘の死を聞いて以来、男が腎虚(じんきょ)になって死ぬほど愛されることが、実は女にとっていちばんしあわせなのではあるまいか、という疑いにとき折取りつかれることがある。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
唐橋や幾島の手前、案ずるな、となだめているものの、正弘の死を聞いて以来、男が腎虚(じんきょ)になって死ぬほど愛されることが、実は女にとっていちばんしあわせなのではあるまいか、という疑いにとき折取りつかれることがある。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
何しろおびたたしい行列なので、途中は助郷人足を使わねばならず、各藩とも庄屋、郷士の息子など呼び出してその役を課したが、日頃馴れぬ力仕事でその任に耐えぬ者もあり、日当八百文で雲助(くもすけ)を雇って割当てを果たす者が多かったという。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
いま、その詩を読むと、頼山陽が十三、四で雄図(ゆうと)を抱き、やっと十八のときその願いが実現して江戸遊学したことがよみがえって来、十八歳といえばいまの自分と同い年だと篤姫は思った。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
当主が心身ともに脆弱のふうで、懸命に勤めを果たしている今和泉家にとって、これは一陽来復(いちようらいふく)にも等しい慶事であり、さっそく内輪の酒宴を、という段取りとなる。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
斉彬は、いま在国のあいだに信念とする和魂洋才(わこんようさい)の具現に努力し、万金をいとわず長崎から洋書を取寄せて翻訳させ、のちの集成館事業、つまり鉄鋼鋳造、火薬、大小銃砲鋳造、また陶磁器、製紙、搾油、農具、メッキ、硫塩酸の製造など多岐にわたって振興させ、時代の先駆者たる面目を見せるのであった。
宮尾登美子『天璋院篤姫』