能力があっても、謀反気(むほんぎ)のつよい理屈屋を信長は好まず、それらの者は織田家の先鋭きわまりない「目的」に適わぬ者として、追放されたり、ときには殺されたりした。
司馬遼太郎『国盗り物語』
信長は数日、堺に滞在した。堺は、かれの気宇(きう)と世界知識を育てるための学校の役割りをはたしたであろう。
そのことも画餅に帰し(がべいにきし)た。今川殿不慮の討死の風聞は今日あたり京にきこえているであろうが、都の貴顕紳士のなげきはいかばかりであろう。
光秀の顔をのぞきこむようにして三嘆(さんたん)した。
妖怪といえども、光秀の人生を決定する得がたき機縁(きえん)にならぬともかぎらぬ。
すでに去年に元服させて、織田上総介信長というしかつめらしい(しかつめらしい)名乗りを名乗らせてあった。
世間を相手に大芝居を打つほどの男は、なまなかな俳優(わざおぎ)の足元にもよれぬほどの演技力があるのであろう。