「ひどい風ですな。桜の蕾がほころぶ前で幸いでした」玄白が、土埃に眼をしばたたき(瞬き)ながら言った。
吉村昭『冬の鷹』
良沢は、源内が知識をひけらかせ(ひけらかせ)て世間を驚かせることのみに専念しているように思えた。
彼は、オランダ語の修得がきわめて困難であることを知ると同時に、世人(せじん)の手をつけぬこの分野に足をふみ入れてみたいという野心をいだいた。
吉村昭『雪の花』
了玄は、長崎を中心とした蘭方の隆昌(りゅうしょう)について話し出した。そのなかには、シーボルトという医者の名も出た。
その道を見下ろす川の土手の上に、しばしば姿をみせる二十七、八歳の男がいた。男は身じろぎ(みじろぎ)もせず立っていた。痩せた長身の男で、彫りのふかい日焼けした顔には鋭い眼が光っていた。
もっとも母が今も生きていて、かたわらでしきりに老いの繰言(くりごと)をきかせていたら、息子はそれをわずらわしがったり、時には親を邪魔者扱いするにちがいない。
李恢成『砧をうつ女』
かの女達はわが家に舞いもどると、あれこれ気ままな噂をするが、その辺は子供のあずかり知らぬ(あずかりしらぬ)所だ。
相方には恋人ができて恵比寿で同棲を始め、結婚するのだと息巻い(いきまい)ていた。
又吉直樹『火花』
その光景は華やかさとは無縁の有象無象(うぞうむぞう)が、泥濘に頭まで浸かる奇怪な絵図のようだった。