この件は、菊本が侍女たちに箝口令(かんこうれい)をしいたにもかかわらず徐々に広がり、本邸にまで聞こえて、菊本はただちに呼び戻された。
宮尾登美子『天璋院篤姫』
こういう経緯を、まだ幼い篤姫は知るよしもなかったが、忠剛の口からよく聞かされていたのは、斉彬公の英邁(えいまい)であった。
進取豪胆の気に富み、若い頃からオランダ語を学び、外国の商館員と親交を持ち、また驕奢(きょうしゃ)を好み、薩摩藩の文化の基礎は重豪が作りあげたという説もある。
それというのも、兄三人はいずれも父忠剛に似て蒲柳(ほりゅう)の質で、よく患い、そのせいかどこか気弱なところがあった。